【あの時あの動き、過去から学ぶ】カーターショック
山下 政比呂
この記事の著者
DZHフィナンシャルリサーチ 為替情報部 アナリスト

証券会社で株式・債券の営業、米系銀行で為替ディーラー業務(スポット、スワップ、オプション)に従事。プライベートバンクでは、為替のアドバイサーとして円資産からドル建て資産への分散投資を推奨してきたドル高・円安論者。「酒田罫線法」「エリオット波動分析」「ギャン理論」などのテクニカル分析をベースに、ファンダメンタルズ分析との整合性を図り、相場観を構築。2016年にDZHフィナンシャルリサーチに入社。

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1978年11月1日、カーター米第39代大統領は、ドル下落に歯止めをかけるために、ドルの防衛策を発動しました。

カーター米第39代大統領は、「ドルの下落は米国のファンダメンタルズとは整合的ではなく、米国や諸外国の経済成長や我々のインフレ抑制政策を阻害する」と表明しました。

【ドル防衛策】

1) 米国財務省と米連邦準備理事会(FRB)によるドル買い介入(※282億ドル)

2) カーターボンド(※100億ドル:外貨建て債券)の発行・・ドル価値維持を保証

3)ドル買い協調介入:独・日・スイスの3カ国と通貨スワップで協調資金を共有

4)公定歩合:1%引き上げ(8.5%から9.5%へ)

5)預金準備率:2%引き上げ

米国が円などの「外貨建て債券」を発行した場合、円を売ってドルを買い、米国内での財政支出にます。カーターボンドが1ドル=180円で発行された場合、米国政府は、180円でドルの買い持ちポジションとなります。ドルが下落トレンドを続けた場合、米国政府は、償還日に為替差損を被りますので、ドルの価値を堅持する政策を続けることを余儀なくされます。

1970年代のドル円相場は、1971年8月15日の「ニクソン・ショック(ニクソン第37代米大統領がドルと金との交換停止などを発表)」により、1ドル=360円のブレトンウッズ体制による固定相場から解き放たれ、変動相場制の中の「海図なき航海」を漂っていました。

1971年12月には「スミソニアン体制」の下で、再び固定相場(1ドル=308円)に回帰しましたが、1973年2月に変動相場制度へ完全移行していました。

そして、米国の貿易・経常赤字と日本の貿易・経常黒字という「日米貿易不均衡」を背景に、1978年10月31日には、1ドル=175.50円まで下落していました。

しかし、ドル円は、「カーターショック」というドル防衛策を受けて急騰し、12月には203.40円まで上昇しました。

その後、1979年10月の「ボルカー・ショック」では、264.00円(1980年4月)まで上昇し、1980年代のレーガン第40代米大統領の「レーガノミクス(ドル高政策)」では、278.50円(1982年10月)まで上昇していきました。

カーター米第39代大統領は、ドルの価値は死守できましたが、第2次石油ショックによるインフレ率上昇、そして、自身が任命したボルカー第12代FRB議長による「ボルカー・ショック」によるリセッション(景気後退)などで、1980年の米国大統領選挙で敗北してしまいます。

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