為替の歴史 〜 前編 〜
為替の歴史 〜 前編 〜
吉岡 豪麿
この記事の著者
吉岡 豪麿
ジーフィット 取締役CAO

国内大手金融機関の外国為替取引部門で外国為替、外国証券等のディーラーとして20年、海外金融機関でアセットマネージャーとして15年以上の経験を有する為替のエキスパート。貿易企業の経営者を経て、企業年金基金の資産運用を担当。2021年1月よりCAOとして投資助言部門を担当。

歴史

現在、一日の取引高が世界中で10兆ドルを優に超えると推定されている外国為替取引。

数ある金融資本市場の中でも、外国為替市場は世界で最も規模が大きく、流動性も極めて高い上に(取引に関する規制がほとんどない)世界中の誰もが最もアクセスしやすい市場となっています。

この開かれた超巨大取引市場はどのような歩みを経て現在の姿が形成されたのか、1973年の『変動相場制』完全移行後の外為史上重要だと思われる出来事を振り返りながら、その歴史をご案内致します。

なお、紙幅の関係上「特に“USD/円相場”関連した国際的な出来事」を中心に回顧を行っております。

①:変動相場制への完全移行(1973年2月)、②:第一次、第二次オイルショック(1973年10月、1979年4月)、③:実需原則の撤廃(1984年4月)、④:プラザ合意(1985年9月)、⑤:ルーブル合意(1987年2月)、⑥:バブル経済の崩壊(1990年~1994年)、⑦:オンライン・トレーディングの急速な普及、⑧:アジア通貨危機(1997年10月)、⑨:ユーロの誕生(1999年1月)、⑩:リーマンショック(2008年10月)、⑪:東日本大震災(2011年3月)

➊チャートは1970年以降の月足(ローソク足)の推移
➋60ヶ月(5年)の移動平均線と±30%のバンドを表示
➌70超/30未満で「買われ過ぎ/売られ過ぎ」を示唆するとされるRSI(相対力指数)を下段に表示

1973年2月:『変動相場制』への完全移行

2度に亘る世界大戦を経て、19世紀に導入された『金本位制』が完全に崩壊した後、「ブレトンウッズ協定(注1)」に基づく『固定相場制』がひかれました。しかし、1ドル=360円という水準からスタートしたこの制度も当時のファンダメンタルズを反映した通貨価値の急速な変化に適応することはできず、その後1ドル=308円という 時代を経て、1973年2月より完全な変動相場制に移行しました。

変動相場制へ移行後20年以上の間、趨勢としてUSD安/円高が急速に進んだため、日本はそれまでのように、輸出によって大きな利益を得られなくなるという痛みを味わいました。しかし、日本の輸出企業は、為替の影響を受けにくい海外へ生産拠点を移し、効率的な生産体制を築くようになりました。

このように、変動相場制への移行は、日本企業が真のグローバル企業として発展するための構造転換を果たす重要な契機になったと考えられます。

(注1)ブレトンウッズ協定とは、第二次世界大戦後の国際通貨体制と経済復興の枠組みを定めた協定の通称で、国際金融機構についての協定である国際通貨基金協定と国際復興開発銀行協定の総称。1944年7月、アメリカのニューハンプシャー州ブレトンウッズで開催された。米ドルを基軸とした固定為替相場であり、1オンス35USドルと金兌換(ドルと金の交換を保証する)によって、米ドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に保つことにより自由貿易を発展させ、戦後の西側諸国の経済の復興を支えた。この協定に基づいて確立した体制のことを、ブレトンウッズ体制という。

1973年10月/1979年4月:第一次/第二次オイルショック

1973年10月に勃発した第四次中東戦争をきっかけに、OPEC加盟参加国のうち6カ国が石油の公示価格を 3.01ドルから5.12ドルへ引き上げ、その後1974年1月には5.12ドルから11.65ドルへと引き上げたことや、原油生産の段階的削減、アメリカやオランダなどへの経済制裁(石油禁輸)を実施したことから、世界的に原油の供給がひっ迫し、価格が高騰しました(第一次オイルショック)。

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